こんにちは!!
スターコーポレーションの粉川です。
私は現在、2024年9月現在60歳になりますが、今から約30年前に
普通のサラリーマン(婦人服の営業)から、会社の為に、2000万円の借金を背負うことになりそこから大きな出会いによって、5年でその借金を返済し人生を変える事ができたお話をします。
そこから続きはありますが、、、、、
【生まれて初めてのセールスの仕事】
前回、生産の仕事のしていたことを書きましたが、それはそれなりに楽しくやっていました。
そんな時に、営業に行ってみようかということになりました。
僕自身は、自分でもわかっていましたが、今考えてもどうしようもない人間だったなと思います。
今が出来てるとも思っていませんが、、、
それくらい人とコミュニケーションを取る事が下手で、自分を変えたいと
中学生の時には友達とですが、生徒会の立候補して通ったこともありましたが、基本
あまり変わっていなかったかなと思います。
なので、思い切って営業の世界に入りました。
ですが、先程書いたような人間でしたので、会社も後から聞いた話によると
アルバイトみたいなのがはいるからと言われていたそうです。
なので使えるのかを見られていたと思います。
そう、なので、給料もほんとにアルバイトの時より安い賃金でした。
これが僕の社会人のスタートでした。
それで、生産部門でがんばってたので、営業をしてくれということになります。
それが、最初に書いたように、OEMのような流れですので、大量に作られた商品が、工場が多く出来るように作られるので、その余った商品を、ずっと営業さんが、閑散期に
周りのブティックさんに営業をかけていましたが、誰ひとり売れたことがなく、、、
これも後で理解することですが、当然、ダイレクトにお客様に良い商品をと日々、仕入れ販売されているブティックさんは、ダイレクトにブティックさんに商品を販売されている
1部上場企業を始めたくさんの良いメーカーさんがあります。
その中で、問屋さんに販売した残りを残ったら売れる?
そんな甘い業界でもないですし、はっきりいって商品のデザインや質あらゆるものが他メーカーとは違う。。
それも後から理解するのですが、その時はわからず、いざ、営業をしたことのない人間が営業することになりました、、、、、、
こんにちは!!
スターコーポレーションの粉川です。
私は現在、2024年9月現在60歳になりますが、今から約30年前に
普通のサラリーマン(婦人服の営業)から、会社の為に、2000万円の借金を背負うことになりそこから大きな出会いによって、5年でその借金を返済し人生を変える事ができたお話をします。
そこから続きはありますが、、、、、
【21歳大阪本町のブラウスメーカーに入社】
大阪本町は繊維の街です
最初は、婦人服、アパレルということで、綺麗な仕事を想像していましたが、そうではなくて、この会社では、地方を含めた卸問屋さんを中心に、販売をされていましたので、自社で企画し作った商品を、提案し、そこの問屋さんや各メーカーさんのブランドとして販売されるものを作っていました。
当時はよく理解していませんでしたが、今でいう、OEMですね。
注文頂いた会社の商品として作ること(今はプロティン、化粧品、電化商品と多々あります)
なので、卸値で、安い金額で大量注文を頂くという会社でした。
僕は主に、生産部門で、毎日、生地を原反ごと工場に送る作業、各、パーツ(フリル屋さん、ピンタック屋さん)を作ってもらうところに生地を持っていく、出来上がったら取りに行く、また、納期がありますから、間に合わなかったら、仕上げ屋さんに手伝いに行く。
出来上がったら、佐川急便の最終便で送る。
それでも、ぎりぎりになるときは、鳥取の工場に中国道の山﨑インターまで持ってきてもらい、そのまま大阪市内の仕上げ屋さんに行き、それを手伝って、ラベル(サイズ、生地表示)を作って、つけて、段ボールにつめて、佐川急便の最終便で送る。
この繰り返しをする、毎日でした。
まるでここの赤帽と言われていました。
でも、初めての仕事で運転も好きでしたので、朝から夜の12時までの毎日でしたが楽しく仕事をしていました。
でも給料は、今思えば、アルバイト並みの安い給料でした、、、、
そんなことを、2~3年した時に、営業に行ってくれないかという話になりました。
でもそれが、、、、、、
こんにちは!!
スターコーポレーションの粉川です。
私は現在、2024年9月現在60歳になりますが、今から約30年前に
普通のサラリーマン(婦人服の営業)から、会社の為に、2000万円の借金を背負うことになりそこから大きな出会いによって、5年でその借金を返済し人生を変える事ができたお話をします。
そこから続きはありますが、、、、、
【20歳の時にアパレル業界に入る】
僕は、大阪市平野区で生まれ育ち、小・中学と地元の学校に通い、高校は、あまり勉強もしなかったために、私立高校に行くことになり親に学費として、結構なお金を無理して、払ってもらいました。
また卒業する時も、何をしたいのか、全くわからず、結局、小さい時から通って大好きだったそろばんが出来る、経理の専門学校にはいりました。
ここでも、高額の学費なので、授業が終わると、梅田の喫茶&パブでアルバイトをして終電で帰る毎日でした。
なので、授業も休みがちになり、簿記などついていけずに、結局1年でやめることになってしまいました。
ここでも、また、ここから何をしたいのか?という人生の明確な目標や目的もなかったので、1年間、アルバイトをし、免許も取ってから、どうするかを決めました。
服が好きだったという理由だけで、職業安定所に行き、そこで、アパレルに行きたいんですということを伝えましたら、今はたいへんですよ。
給料も安いしといわれたのですが、良く解らず、本町の婦人服のブラウスメーカーに就職することになりました。
それが、21歳の時のことです。
つづく・・・・